2007/03/30
2007/03/29
皇居
絶好の天気に恵まれた28日皇居見学をした。始めの桜開花予報ではもう遅いかなと思っていたが、3月は温度が低く思いのほか桜はまだ咲き始めで、暖かいところは7,8分咲き程度だったが、バスから梅、モモ、コブシ等いろいろの花見をしながら楽しんだ。皇居へ着いたときは暖かいのを通り越して暑いくらいで上着を脱いで見学した。4列に並び、154人のツアーで今日は350人くらいの人が宮内庁の係員の指示、案内で1時間以上をかけ、桔梗門から、宮内庁庁舎、宮殿、二重橋、まで行き戻る、2、2Kmのコースで初めて皇居の中へ入ることができた。
写真上3枚は一番咲いていた楠正成像近くの桜
下は山下通りの桜ともう芽吹いたモミジでとても珍しいそうだ
2007/03/25
世界フィギュア
今日の新聞の一面にはフィギュアスケートの世界選手権で安藤美姫、浅田真央選手が1,2位と金、銀のメダル獲得の記事が大きく載っていた。昨夜はドキドキしながら見ていたが、見ているだけでもドキドキだから、ましてや選手にはメダルへのプレッシャーがあったにもかかわらず見事な演技を見せてくれた。男子の高橋選手の銀に続き女子のワンツーは本当にすごいことで表彰台はアジアが独占し今まででは考えられなかったことだ。これからもお互い刺激しあってレベルアップしてメダルをとり続けてほしい。プロ野球もパリーグが開幕して30日からはセリーグが開幕する。ワーイ!シーズン到来だー。
写真 上と中 ようやく咲き出した我が家の梅とレンギョ
下 この角度が好きな京都青蓮院の大楠の木
2007/03/24
清水寺
京都観光の代表格。奈良時代の終わり778年に延鎮上人が音羽の滝近くに草庵を結び、千手観音を祭ったのが始まり。きれいな色に、お色直しされた仁王門をくぐったら運よく舞妓さんが記念撮影に応じていた。さっそく何枚か撮る。いつも見かけるだけで写真は撮れなかったのでとても嬉しい。三重塔、経堂、田村堂を見て轟門(とどろきもん 中門)をくぐると本堂と舞台にでる。眺めが素晴らしい。京都市内が一望でき、眼下には音羽の滝、横に奥の院、前方に子安塔等が見える。この舞台の上から見る桜、紅葉はさぞかし素晴らしいと思う。地主神社、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院、足を延ばして子安塔まで行って来る。ここからの眺めも素晴らしい。2時から春、秋2回奥の院で舞う獅子を見学することができとてもラッキーだった。
2007/03/23
東寺 五重塔
五重塔は東寺のシンボル。四度も焼失しているのに地震で倒壊した記録がない。これは塔の塔身が各層ごとに組上げ、最上層まで繰り返す積み上げ構造になっていて、木材同士も切り組や、単純な釘打ち程度で緊結されない柔構造だからで、地震のエネルギーは接合部で吸収され上層へ伝わるにつれ弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。柱も各層では短いため、倒れようとする力よりは元へ戻ろうとする復元力の方が大きいので地震に強いと考えられているそうだ。今のように機械がないのに昔の大工の腕と頭はすごいと思った。
中の心柱が屋根を突き上げてしまいそれを直すために50cmほど切り下げた証拠に心柱の彩色が少しずれていた。
内部の仏像、柱や四方の壁、扉等に描かれた絵、それに折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)とどれも素晴らしい文化財だと思った。
2007/03/22
東寺 観智院
観智院は東寺一山の勧学院で、所蔵する密教聖教の量と質だはわが国最高といわれる。中に入るとまず国宝の客殿へ。宮本武蔵が一条寺下り松で吉岡一門と戦った後、身を寄せていたときに描いたといわれる「鷲の図」が床の間にある。荒鷲が今にも飛びかからんとする様が描かれていた。説明を聞いたので「なるほど」と分かるが何年もたち紙が変色していて分かりにくいが迫力は十分伝わる。「竹林の図」は竹が交差して描かれ、二刀流武蔵の心意気が感じる。客殿の前には五大の庭があった。書院には浜田泰介画伯の「四季の図」が武蔵の絵と対照的に色鮮やかに描かれていた。また茶室から見た庭園も素晴らしかった。
写真 上 五大の庭
中 茶室前の庭
下 茶室横の手水鉢
2007/03/21
2007/03/20
京都冬の特別公開 聚光院
今回は特別公開を見学して来た。大徳寺の聚光院と真珠庵、妙心寺の玉鳳院、東寺の五重塔と観智院で今日は聚光院を紹介します。
ここは襖絵が国宝。狩野松栄、永徳親子の筆による絵で松栄の『しょうしょう八景図』『竹虎遊猿図』と永徳の『花鳥図』『琴棋(きんき)書画図』を見た。松栄はやさしい、軽いタッチで描かれしろぬきという描き方で雪山や猿の子供が描かれていてとても味わい深く、いつまで見ていても飽きない絵だった。永徳の絵は24歳の作といわれ力強く描かれていた。梅の巨木がダイナミックだ。松栄の竹虎遊猿図で虎の親子が描かれ、雌がなぜか豹で昔は実物でなく毛皮を見て描いて、豹を雌と思ってかいたのでは?と説明され、なんともいえないこっけいにすら感じられた。子供の表情がとても可愛かった。
写真撮影禁止のため山門と参道の外の写真だけになった。
2007/03/19
2007/03/18
2007/03/15
2007/03/10
2007/03/07
2007/03/05
鎌倉 鶴岡八幡宮
源頼朝がこの高台に社殿を造ったときは、すでに平家は滅亡し、奥州藤原氏も討伐し全国60余州を平定したときであった。翌年には征夷大将軍になり、まさに頼朝の絶頂期だった。鎌倉はこの頃既に、京都と並んで政治文化の中心となっており、頼朝は関東の総鎮守となって崇敬されていた。以来鶴岡八幡宮は鎌倉のシンボルであり、幕府の儀式、行事は全てここを中心に行われた。
舞殿は入母屋つくりの建物。頼朝に命ぜられて「吉野山みねの白雪ふみわけて いりにし入りのあとぞ悲しき」と義経を慕う歌を詠み舞った静御前は頼朝の怒りをかり義経の子と自らの命を失う悲劇がうまれた悲しい逸話が残っている。華やかな八幡宮は友引のこの日二組の結婚式があり、にぎわいを増していた。
2007/03/03
2007/03/02
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